「私と仕事、どっちが大事?」的問題の問題点的な何か

言ったことも言われたこともないけれど、「私と仕事、どっちが大事?」というような問いがある。これは、そもそも問いの立て方がおかしいので検討する意味はないが、「『私と仕事、どっちが大事?』と言われたときにあなたならなんて答えますか?」という問いもまた無意味である。相手の性格、自分と相手の関係性、問いを投げかけられるに至った経緯、など、実際に問いを投げかけられたときにその状況の周囲を取り巻いているはずの条件を考慮せずに答えを導いてもしかたがない。「君が大事に決まってるじゃないか」「君と生活するために働いているんだ」「比較項目が同類ではないのでその問いは無意味」「仕事をしている時間はつまらないが、そのような無意味な問いを臆面もなく発することができるような人といる時間よりは有意義であり比較的重視している、と見なすことができる」などの答えは、場合によってはすべて正しい答えになりうる。「たいていそういう問いを発する人は、問いに対する直接的な答えを求めているのではなく、相手が自分に向けている気持ちの強さに懸念を抱いているのであり、その不安を取り除いてほしい、または態度で示してほしい、と願っているのだ、だから安心させてあげるような言動をとれば良いのだ」とも言われるが、それは単なる一つの傾向と対策に過ぎない。もしかすると相手は、問い自体が孕んだ単純な構造的問題は把握しつつ、理性的にこちらの出方を試しているのかもしれない。もてあそんでいるのかもしれない。そもそも日本語ではないのかもしれない。それらすべての考えうる可能性を、市民的、社会的、国家的、民主的、社民的、生物学的、地球環境学的、自然法的、天体力学的、時空連続体的等多角的に検討し、今後の二人が最大限の幸福を獲得し一生涯持続できる究極の答えとは一体何なのか捻り出そうとした揚げ句疲れ果て、眠くなり、最後、朦朧とした意識に鞭を打ち少年は問いに答えて曰く「おやすみなさい、大好きだよ、ママ」。